大阪物語
映画「大阪物語」を観る。
一場面一場面の情念が濃い。
下らないメモ。
アメンボは沈んだらどうなるのか検索。
DVDプレイヤーのトレイを開けたら無限にトレイが出てくるという夢の話を読む。
ブルカ(全身を覆うイスラーム教の民族衣装)がシースルーだったら、と夢想する。
人の役に立ちたいけれど何をやっていいか分からない人は、人の役に立っている人(応援団やボランティア)を助ける活動(応援やボランティア)をすればいいのではないかと思う。
もし地球上の人々が全く同じタイミングで死刑となる犯罪を犯したら、刑を執行するタイミングを巡ってどんな論争になるのかを考える。
今日はRashad Beckerの「Dances Ⅴ」を聴いて寝る。(1/19)
「あなたが消えた夜に」
中村文則の小説「あなたが消えた夜に」を読む。
マルクスの言葉。
「宗教は追い詰められた生き物のため息であり、非常な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。それは人民の阿片である。」
宗教の定義は難しいらしい。Wikipediaによると、「人間の力や自然の力を越えた存在を中心とする観念であり、また、その観念体系にもとづく教義、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団のことである。」とある(大学時代、同じような話を習って、「集団」というのに妙にひっかかった記憶がある)。
愛しあえる人がいない寂しさ、理解し合える人がいない寂しさ、病気の辛さ、自分に誇りが持てない辛さ、たぶんそういったものが問題なのだと思う。
ひとまず今日はPatti Smith「Frederick」を聴いて寝よう。(1/16)
お前のものは俺のもの
今日は「ジャイアンとスネ夫の声でギャングスタラップ作った」という動画を見ていた。ジャイアンといえば「お前のものは俺のもの」という名言で有名な殿方である。一方スネ夫はいつもモブキャラ扱いで、悲しいかな自分のような人間はどうしてもこういうキャラを追ってしまう。
日常の中では他人に自分のおススメを言わないといけないシチュエーションがある。しかしそれほど文脈を共有していない他人に対して、嗜好を汲み的確なアドバイスをするのは結構難しい。特に難易度が高いのは、「おススメの音楽教えて」という一言である。
自分が何かをおススメされるのはいい。当方は小さい時から自分の傾倒しているバンドが酷評されるとか、それまで全く興味のなかったジャンルを急に好きになって感覚が拡張された気になるとか、そういう体験を沢山してきたので、ある程度どんな球が来てもそれなりに受け取って楽しめる。(昔そこまで音楽を掘らない純粋な心を持った友人にJungle Smileと80's歌謡アイドルを延々とおススメされたことがあるが最高だった。)
しかし対一般人だと中々そうもいかない。特にその人が既に好いているものがあると、そのハードルの高さたるやエベレスト級である。そういう時に二番煎じが一番手を凌駕することなんて99%有り得ない。
では皆さんはこのエベレストをどう超えているのか。良くあるのが、例えば今なら「あいみょん良いよ」「米津良いよ」あたりのラインだろう(ちなみに自分も米津さんは大大大好き、特に「YANKEE」)。確かにそのセリフを言う本人さんのお気に入りではあるだろうが、そのお気に入りの座を得るためには、先立ってさらに別の人からその本人さんへおススメされるという体験を経ていることがたぶん大切。雑誌で誰かが推してた、チャートで一位を獲った、憧れの人がおススメしてくれた、などなど。自分一人で調べて探し出した「あいみょん」より、この間友人に勧められた「あいみょん」の方が他人には勧め易い。たぶん自信が出るし、不思議なことにちょっと自分の責任が軽くなる気もする。もしかしたら自分が本当に好きなものを勧めて拒絶されると傷つくから、それを本能的に回避しているのかもしれない。口コミが大事と言われる所以であろう。何かを貶す物言いにも、同じメカニズムが働くと思う。
(似た現象として、「何が好きなの?」と言われた時に、自分が本当に好きなものを何故か言えずに、「他人が以前好きだと言っていたもの」をそのまま借用して自分の好きなものとして挙げてしまう、というのもありがち。)
それとは少し違う話かもしれないが、絵でも音楽でも何でも、「もうやり尽くされて本質的に新しいものは何もない」という言葉をたまに聞く。嫌な言い方だが、当たっている面もあると思う。何かをやろうと思ったら、勉強だってスポーツだってまずは真似から入る。
言葉だってそうだ。自分が何か考えを言う時、それがどこまで他人の受け売りでないと言い切れるだろうか。「今の政府ダメだ」「あのラーメン屋美味いよ」「◯◯さんって実は××でヤバいらしいよ」最初に言い出したのは自分か?そういうこともあるだろうが、そうでないことは結構多い。無自覚なまま、他人の意見を自分の中に取り込んで、それを自分の意見だと思っていることってあると思う。どこまでが「自分」のアイディアかなんてわからない。
「絶対的に新しいものはないが、要素の組み合わせがその人の個性を生む」という言葉もたまに聞く。これも当たっている面はあるんだろうな。個人的にはその言い方もあまり好きじゃないけれど。
自分の実感としては、「何やってもすぐ上手くいっちゃう人」というのは長続きしにくいと思っている。逆に、「何が失敗か」をよく知りよく考えている人は息が長いと思う。ただ、成功への道程に方程式はなくて、恐らく反射神経みたいなものが同時に必要。だから、失敗から多くを学びつつも、いざとなったら思い切って跳べることが大切なんじゃないかと思う。それまでの準備や蓄積はとても大事だと思うけれど、現場で何が新しいとか古いとか、何が自分で何が自分じゃないとか、そんなの考えている暇はたぶんない。
「自分」の持っている考えの大部分が「他人」由来の考えで出来ているとしたら、自分を参照している間に他人を参照していることになる。それは大切なことだけれど、それだけで100%決まるならつまらない。最後は自分より速く走らないといけないのだ。
Fishmansの「チャンス」という曲の歌詞に「いっしょうけんめい 話すから好きさ」というシンプルな一節があり、これは自分のお気に入りだ。
話を戻すと、ジャイアン御大は「お前のものは俺のもの」と宣っているが、これは主に資産について言っている(と思う)。その実彼は、精神的には意外と脆く、ちょっとしたことでプライドを傷つけられ易い気がする。田舎のヤンキーとかにもこういうタイプは多い気がする。
その点スネ夫は、ちっぽけな自分にとらわれず他人の意見を自分の意見としてすんなり受け入れる。そこから生まれる成果はともかくとして、「お前のものは俺のもの」をより体現しているのはスネ夫かもしれないのである(?)。
相変わらずそんなアホなことを考えながらふとNasのThe World is Yoursを思い出して聴いていた。収録アルバム「Illmatic」は言わずと知れたラップ最高峰のアルバム。訳はググればすぐ出てくるのだが、「俺は表現のための大統領が必要だ(=紙幣と掛かっているらしい)」、「世界はお前のもの/俺のもの」等々と唄う名曲である。
なお音楽の個人的な好みでいうと、同アルバム内で共演しているAZのソロ名曲「Rather Unique」なんかはこれ以上に最高である。
(じゃあそれを友人に自信を持っておススメできるか?いやー米津玄師の「TOXIC BOY」とかおススメ、、、)(1/5)
西野カナが嫌いという話
今日は三島由紀夫が太宰治を嫌いだという話をyoutubeで見ていた。その後ボケーとしながらほぼ消音で日本レコード大賞を見ていた。あれ?レコード大賞ってやらせって騒がれてたけどまだやんの?とか思いながらも結構感動しながら見ていると、なぜか西野カナが出てきて何か癪に触る「トリセツ」を歌い出した。
「トリセツ」の何が嫌かって扱いがメンドくさい、というのがよくある見解のように思うが、年齢=奇人変人愛好歴である自分からするとそこまで面倒なことは言っていないように思う。個人的には「男に向けているようで実は女社会の中で閉じた会話をしている」というところが嫌だ。女子会という言葉も正直嫌いだし、男子だけが集まって下品な下ネタを話しているのも嫌い。同性で閉じている感じがするから。まあ既に個人のレベルで鉄壁のガードを怠らない自分が言えた義理でもないのだが。
個人的な経験からすると、女性は男性より仕事ができることが多い。こんなことを言うと今のご時世差別と言われるかもしれないし、そもそもそこで男と女を分ける必要もない気はするが、実感としてそうなのだから仕方ない。ただ女性は、必要がない局面では無駄に本気(執念とも言う)を出さない。仕事をしながら同時に世間話できるというワザも是非見習いたいところである。
私は嫌いという言葉が割と嫌いだ。嫌いは好きの裏返しというから、嫌いということを表明しただけで負けな気がする。でも、何かを嫌いというのは、逆に言うと「自分の領域はここまでで、そこから先は違うよ」と線引きする作業でもあって、自分を保つために必要な作業という気もする。
嫌いの1ジャンルとして、同族嫌悪という言葉がある。芸術とかいわれる世界では、オリジナリティ欠乏恐怖症というのは割とデフォルトな装備だと思う。その道の人たちのインタビューなんかかなり見てきたが、作品の評価で、丸パクリが大きなマイナス、誰かの影響が露骨すぎて独自性が薄いのもマイナス、オリジナリティを無理やり作為的に出そうとするのが(アウトプット次第で)微マイナス〜微プラス、影響を受けても独自なものにできるのがプラス、「オリジナリティ」なんて変に求めなくても素晴らしいものができるよって境地が大きなプラス、っていう格付けの世界だと感じる。作者が意識して求める求めないに関わらず、オリジナリティがないものは同業から評価されにくいのが暗黙のルール。芸術はスポーツのように明確な勝ち負けやデータが無いから自由だ、と言いながら、他人の心を打つ際にどれだけ独自性を出せるかという戦いはたぶんある。だから、三島が太宰に感じたように、凄い才能を見ると嫉妬して本能的な恐怖を感じるのではないか。これってスポーツで試合に負けるのと結構似ていると思う。(三島はそんなこととっくに自覚して言語化できているのも傑物の所以だろう。)
さて私は子供の頃、クモが地中に作る細長い袋のような巣をペリペリと引っ張り出すのが好きだった。バッタもアメンボも手づかみだった。翻って今は昆虫大嫌いで、触るのはおろか近寄られるだけで身の毛がよだつ。単純すぎる話かもしれないが、自分に害を及ぼすものが嫌悪感の起源、もしくはその1つというのもまたあり得る話だ。
もし西野カナのルックスが西野七瀬だったら、歌い方がもっと囁くような歌い方だったら、アンチ「トリセツ」勢の8割は駆逐できる気がする。あ、でもそしたら女性がアンチになっちゃうか。もし自分が政治家だったら、king&princeとか全力で味方につけようとすると思う。
郷ひろみ・樹木希林の「林檎殺人事件」という曲がある。今日のレコ大でもかかっていた。自分にとっては物心つく前から親に刷り込まれた名曲である。この曲、今聴くとなんでこの歌詞でこの明るさなのかさっぱり分からないところが最高だ。アレンジも日本のヒット曲としては最高峰だと思う。「嫌い」というテーマつながりで言うと、wikipediaのミソジニー(女性嫌悪、女性蔑視)の項の関連項目でアダムとイブが出てくる。クリックすると、アダムとイブを比べた時に男性上位的傾向が見られるという話が書いてある。キリスト教でも間違えることがあるのかな。興味は尽きない。
年末に、改めて樹木希林さんのご冥福をお祈りします。
今日は大晦日。ちなみに自分が今年一番良く聴いた曲は今更のAimerの「words」。これこそ女性らしさがよく出ている、まさに執念の名曲だと思う。(12/31)
クリスマスに纏わる話
世間はクリスマスで浮かれている。クリスマスなんて自分には関係ないよ~とか言いながら皆結構楽しんでいる。もっとも自分には本当に関係ないイベントだ、というかおよそイベントというものに私は関係がない。
場の話
さっき「私は愛嬌がない」とネット検索したら(←何やってるんだ俺w)、流石Google先生、即座に「素直に嬉しさや悲しさを表現してみましょう!」ときた。それはいいとして、「嬉しいも悲しいも何も感じない…という人は別の対策が必要になりそうですね…」と続く。ふむ自分はこれか…と一瞬納得しかけたのも束の間、ふと思う。「別の対策」って何だ?その点はご丁寧にスルーされているのである。
無用の長物
一日二回はコンビニに行く、もとい可愛いバイトのおねーちゃんを見に行く私、ある時ふと入り口で考えてしまった。
「コンビニって24時間なんだから、入り口のドアのカギ要らなくね?」
このカギ君はずっと出番がないのに健気にその機能を保ちながら呼ばれる時を待っているのだ、と考えたら急にとてもいとおしくなって泣きそうになった。
残念ながら自分は糞の役にも立たない人間である。会社なんてものは自分がいなくなりそうになると(メンドクサイから)全力で引き止めるくせに、実際いなくなってもケロッと代わりを探しそれなりにやっていけるものだ、世の中を観察してるとそういうことは何となく分かってくる。でも私は、コミュ力の無さは致命的なマイナスとはいえ、仕事は真面目にやるから、歯車程度には機能している、んだろう。
「昔の」自分「は」アホだったので勉強はそこそこできると自分で思っていたところ、高校に入ってすぐのテストで学年のビリから数えて10番を取ってしまった。その時、「120年の歴史があるこの高校なら同じような境遇の仲間は120人もいるハズだからまだ何とかなるだろう多分」という謎の擁護を用いて傷ついたメンタルを立て直した俺である。自分が役に立たないと感じたときは、嫁姑争いのごときテンションでコンビニのカギと張り合おうと思ったのだ。
前にテレビのドキュメンタリーで、コンビニの店長の待遇が酷いということで本部に声を上げて戦ったものの、結局争いに疲れ店を畳んだ、という趣旨の番組があった。その主張の是非は分からない。ただ、その店の最終日の営業が終わりコンビニのカギがそっと締められる様は、私にとっては感慨深いものがあった。
ちなみにググったところ無用の長物とは仏教の用語とのこと。人間に必要なものを6つ定義して、それ以外は必要のないものとするらしい。さすがに潔い。そのうち3つは衣服。残念ながらコンビニのキレイなおねーちゃんはランク外だった。(12/18)