西野カナが嫌いという話

今日は三島由紀夫太宰治を嫌いだという話をyoutubeで見ていた。その後ボケーとしながらほぼ消音で日本レコード大賞を見ていた。あれ?レコード大賞ってやらせって騒がれてたけどまだやんの?とか思いながらも結構感動しながら見ていると、なぜか西野カナが出てきて何か癪に触る「トリセツ」を歌い出した。

 

「トリセツ」の何が嫌かって扱いがメンドくさい、というのがよくある見解のように思うが、年齢=奇人変人愛好歴である自分からするとそこまで面倒なことは言っていないように思う。個人的には「男に向けているようで実は女社会の中で閉じた会話をしている」というところが嫌だ。女子会という言葉も正直嫌いだし、男子だけが集まって下品な下ネタを話しているのも嫌い。同性で閉じている感じがするから。まあ既に個人のレベルで鉄壁のガードを怠らない自分が言えた義理でもないのだが。

 

個人的な経験からすると、女性は男性より仕事ができることが多い。こんなことを言うと今のご時世差別と言われるかもしれないし、そもそもそこで男と女を分ける必要もない気はするが、実感としてそうなのだから仕方ない。ただ女性は、必要がない局面では無駄に本気(執念とも言う)を出さない。仕事をしながら同時に世間話できるというワザも是非見習いたいところである。

 

私は嫌いという言葉が割と嫌いだ。嫌いは好きの裏返しというから、嫌いということを表明しただけで負けな気がする。でも、何かを嫌いというのは、逆に言うと「自分の領域はここまでで、そこから先は違うよ」と線引きする作業でもあって、自分を保つために必要な作業という気もする。

 

嫌いの1ジャンルとして、同族嫌悪という言葉がある。芸術とかいわれる世界では、オリジナリティ欠乏恐怖症というのは割とデフォルトな装備だと思う。その道の人たちのインタビューなんかかなり見てきたが、作品の評価で、丸パクリが大きなマイナス、誰かの影響が露骨すぎて独自性が薄いのもマイナス、オリジナリティを無理やり作為的に出そうとするのが(アウトプット次第で)微マイナス〜微プラス、影響を受けても独自なものにできるのがプラス、「オリジナリティ」なんて変に求めなくても素晴らしいものができるよって境地が大きなプラス、っていう格付けの世界だと感じる。作者が意識して求める求めないに関わらず、オリジナリティがないものは同業から評価されにくいのが暗黙のルール。芸術はスポーツのように明確な勝ち負けやデータが無いから自由だ、と言いながら、他人の心を打つ際にどれだけ独自性を出せるかという戦いはたぶんある。だから、三島が太宰に感じたように、凄い才能を見ると嫉妬して本能的な恐怖を感じるのではないか。これってスポーツで試合に負けるのと結構似ていると思う。(三島はそんなこととっくに自覚して言語化できているのも傑物の所以だろう。)

 

さて私は子供の頃、クモが地中に作る細長い袋のような巣をペリペリと引っ張り出すのが好きだった。バッタもアメンボも手づかみだった。翻って今は昆虫大嫌いで、触るのはおろか近寄られるだけで身の毛がよだつ。単純すぎる話かもしれないが、自分に害を及ぼすものが嫌悪感の起源、もしくはその1つというのもまたあり得る話だ。

もし西野カナのルックスが西野七瀬だったら、歌い方がもっと囁くような歌い方だったら、アンチ「トリセツ」勢の8割は駆逐できる気がする。あ、でもそしたら女性がアンチになっちゃうか。もし自分が政治家だったら、king&princeとか全力で味方につけようとすると思う。

 

郷ひろみ樹木希林の「林檎殺人事件」という曲がある。今日のレコ大でもかかっていた。自分にとっては物心つく前から親に刷り込まれた名曲である。この曲、今聴くとなんでこの歌詞でこの明るさなのかさっぱり分からないところが最高だ。アレンジも日本のヒット曲としては最高峰だと思う。「嫌い」というテーマつながりで言うと、wikipediaミソジニー女性嫌悪、女性蔑視)の項の関連項目でアダムとイブが出てくる。クリックすると、アダムとイブを比べた時に男性上位的傾向が見られるという話が書いてある。キリスト教でも間違えることがあるのかな。興味は尽きない。

年末に、改めて樹木希林さんのご冥福をお祈りします。

 

今日は大晦日。ちなみに自分が今年一番良く聴いた曲は今更のAimerの「words」。これこそ女性らしさがよく出ている、まさに執念の名曲だと思う。(12/31)