場の話

さっき「私は愛嬌がない」とネット検索したら(←何やってるんだ俺w)、流石Google先生、即座に「素直に嬉しさや悲しさを表現してみましょう!」ときた。それはいいとして、「嬉しいも悲しいも何も感じない…という人は別の対策が必要になりそうですね…」と続く。ふむ自分はこれか…と一瞬納得しかけたのも束の間、ふと思う。「別の対策」って何だ?その点はご丁寧にスルーされているのである。

 
場、プラットホーム、今や流行りを越えて一般化した言葉である。たぶん人やコンテンツやお金が対義語として想定されているんだろう。
じゃあどんなところにそれが集まるのか。それに答えを出すのは難しい。利便性?居心地のよさ?ジャンルにもよるだろう。経験知がないと答えは出ないかもしれない。
とここまで考えて、「じゃあ人を自分の回りに集めるような人ってどんな人だろう?」と問いを変えてみて、冒頭のテーマに至ったのだ。
 
自分はどちらかというと生真面目な所があって、あまり愛嬌のあるタイプではないだろうから、隣の芝生ではないが不完全な魅力みたいなものに憧れがある。他人に甘えるとか無理。猫とか反則。でそういう人になったらなったで自分にイラっとしそう。小さい頃レゴブロックは必ず左右対称に作らないとイヤだった。お陰で年を経た今は、例えばアシンメトリーなデザインの良さをより理解できる気がするけれど。
 
そういえば、議論のテーマとしては賛否が別れるテーマの方が面白いというのを読んだことがある。入試の小論文の参考書だったかな。
確かに、「いじめは悪いことだと思うか」というテーマより、「いじめを正面から糾弾したらその人が次にいじめられてしまう可能性があるが、あなたはそれについてどう思うか」というテーマの方が、書き手も読み手も気合い入りそうな気がする。テーマと射程が決まれば8割は決まったようなものだから。突き詰めるとワイドショーの騒動みたいになりそうだけど、やっぱり突っ込みどころのある人の方が周りの人が関わりたくなりやすいんだろうか。グラップラー刃牙とか皆我先に語りたがるもんな。
 
でも場といっても単なる人混みは嫌だ。大学時代なぜ皆が同じ一時間に一ヶ所に集中してご飯食べないといけないのかどうしても納得できなくて、公園で毎日一人ベビースターラーメンを食べていたのを思い出す。
人が多いだけでは場とはたぶん言わない。そこで自分らしさを発揮できるようなお膳立てができるか、それこそが場の価値なんだろう。
 
レゲエにはリディムという言葉がある。いわゆるバックトラックみたいなものか。昔のレコ屋にはそんな名前のフリーペーパーもあったな(今もあるのかな)。いいリディムは使い回して新たな曲を作る、という文化を知ったときにはかなり驚いたのを覚えている。これも1つの「場」なんだろうと思う。
今日はAlton Ellisの個人的なお気に入り「Pearl」を聴いてから寝よう。(12/21)